久しぶり。
なんか、定性的研究と定量的研究の間で行われている議論と、同じ構図が見え隠れしますね。
こちらでは、発達障碍の親と子(本人)の、ライフヒストリーづくりを始めました。
本人に書いてもらったり、聞き出したり。
2年ぐらいかかると思いますが、読み物として世に問う予定です。
ベースには、キャリアマネジメントの考え方があります。
気の長い話です。重たい行程になると思います。
でも、動かないと変わらないからね。
以下は、私がTwitter(http://www.twitter.com/myzkyss ![]() 発達障害に関するセミナーは日本各地で頻繁に開かれている。療育のしかた、ポジティブな行動を促進するかかわり方、などなど。JEARN関係者の方々の中にも、参加された方は少なくないかもしれない。しかし、セミナーや講演会に「本人」が登壇することは少ない。実名を出すと職場で偏見にあうとか、最悪の場合は解雇とか、いろいろな懸念があって、本人は「ならば出ないほうが」ということになる。また、本人に意思があっても家族が反対することもある。 しかし、これには落とし穴があるようにみえる。発達障害に関心のある人々に「本人」の声が届きにくい、ということになる。あるいは、プレゼンテーション能力があって快活でポジティブな一部の本人や、「支援者」として有名になってから発達障害を自覚しはじめた人々が多くを語ることになる。これでは、限られた「エリート型」の「本人」が「発達障害者」のイメージを形成しかねないのである。 この状態が、発達障害のラベルを貼られた人々の声を的確に代弁しているといえるのか。疑問符を抱かざるを得ない。時々「本人」が講演することがあるが、体験談や「頑張っているので理解してください」という方向性の話になることが、私の知る限りでは多い。その人々は、何とか自己管理のスキルを身につけて、社会で苦労しながら生きている人々の姿である。それは必要である。発達障害の子どもをもった親御さんに勇気と知恵を与えてくれるであろう。 しかし、その一方で私が声を大にしていいたいことは、法に触れるか、家に引きこもるか、家族や組織を絶望に陥れる(人物とみなされる)人々が確実にいるということである。この現実に目を背けてはならない。発達障害の関連団体は凶悪事件の犯人が「アスペルガー症候群」の診断を受けたと報道されると、「アスペルガー症候群が犯罪を引き起こすことはありません」と声明を出す。うがった見方ではあるが、仮に発達障害を持つ「本人」と家族をコミュニティーとすると、これはそのコミュニティーによる「トカゲの尻尾きり」ではないか。発達障害のラベルを貼られた人々、彼らを追い込んだ環境要因(たとえば、将来に不安があった、暴力や虐待を受けていた、など)とアスペルガー症候群の認知特性の因果関係ないし相関関係が、どれほど研究されたきたのか。 いま、発達障害の世界における「本人」がしなければならないことは、「本人」の立場から政策を分析し、ライフスキルの開発をし、世間に発信していくことではないか。はたしてどのような事業に何円の予算が配分されることが「本人」のニードにあうのか。より深く研究され、当事者団体が学会で発表することがあってもいい。米国にはその種の団体がいくつもある。日本の発達障害に関する権利擁護(アドボカシー)は本人の勇気ある参加が肝要だと思う。脳性麻痺に関しては「青い芝の会」がある。知的障害に関しては「ピープルファースト」などがある。精神障害についても全国規模の「本人」組織がある。身体障害についても長い運動の歴史がある。発達障害の本人グループは、より大きな動きをしていく必要があるのではないか。 私は長らく広汎性発達障害に関する勉強をして、障害者福祉の現場でも働いて、セルフヘルプグループにも参加して、以上のようなジレンマを感じてきた。講演で描かれる発達障害には、私が福祉の現場で見てきた「本人」の生々しい姿があまりみえてこない。いま、私ができることを考え、行動しようと思う。いまこそ、発達障害を持つ「本人」の声を政策に反映させる行動を。 ちなみに本文における「本人」とは、障害を持った人、ないしラベルを張られた人々のことである。 |